ジルのフェラーリ以降のお話 と 後日談

これは、ジルとピローニの82年イモラのバトルをモデルにしたジオラマを入手した時に、コメント用に準備した文章です。ってコメント用には長すぎだし、例の所とネタ被りも多かったので封印していました。

ジルのF1デビューまでの経緯は私のHP(プロフィールにリンクがあります)のFAQに載っているので省略させていただき、フェラーリ加入後からのお話をしてみます。ジルの事だけではなく、ピローニとの確執や当時のF1の時代背景にも触れています。

この文章については是非感想を聞かせて頂きたいです、お時間のある方はコメントを記入していただけるとありがたいです。

 77年からフェラーリの総帥エンツォの鶴の一声でフェラーリに加入はしたジルですが、まだまだ新人の彼は78年はカルロス・"アルゼンチンの鷹"・ロイテマン、79年はジョディ・シェクターのサポートとしてNo2ドライバーの役割を果たしました。そのおかげもあって、フェラーリは79年に312T4でシェクターがチャンピオンを獲得します。

 ジルは、この頃のNo2という地位についてのインタビューには「僕は偉大なチームに所属している。そして彼は偉大なドライバーで最高の友人でもある。僕が彼の後でフィニッシュすることで、彼もチームもタイトルを獲得した、何も不足は無いだろう」と答えました。この答えには皮肉や厭味が無く、ますますエンツォやティフォシが彼に惚れ込んでいきます。そして、チームもティフォシも次は彼が栄光を受ける番だと信じていました。

 しかし、翌年からのフェラーリはウィングカーに不向きな水平12気筒エンジンのマシンと将来に向けてのターボの開発等の問題があり、チーム内の開発方針があやふやになったために戦闘力が激減してしまいました…。80年は未勝利、81年はやっとジルが2勝をあげるに留まってしまいました。この80年、戦闘力の低いチームにシェクターはモチベーションを失いチームから離脱してしまい、81年から代わりにディディエ・ピローニがチームに迎えられました(実は80年の初頭にすでにピローニとフェラーリは、フェラーリのどちらかのドライバーがいなくなった場合ピローニをチームに迎えるという契約を極秘に交わしていたという噂もあります)。

 フランス人のピローニはジルとは対照的にレーサーとしてのエリート街道を歩んでいました。エルフのサポートでF3、F2そしてF1までのぼり詰めました(実際に彼がF1デビューしたのは当時エルフの関係が深いティレルからです)。やはりエルフがサポートするルノーでルマンにも参戦し優勝。F1ではリジェで優勝1回を含め数度の表彰台を得て、その頃のフランスでルネ・アルヌーと共に「どちらかがフランス初のチャンピオンとなるドライバー」との期待がたかまっていました。
 エリートとしてF1まで来たピローニには、誰にも(もちろんジルにも)負ける気がしなかったのですが、走らないマシンに手を焼きながらも自分より成績が上のジルに脅威を感じ、密かにライバル心を燃やしていきます。

 一方、元々おおらかで気さくなジルは、そんなピローニの気持ちも知らず、2歳年下のピローニを弟のように扱いフェラーリ・チーム内でいろいろなアドバイス等を与えるなどサポートしていました。ジルは自分がシェクターのサポートをして今エースになったように、フェラーリ復調後はピローニが自分をサポートし、ジルがチャンピオンになった次はピローニの順だと考えていたようです。

 82年、故ハーベイ.ポトレスウェイト博士が作成した126C2はフェラーリのターボエンジンと共になかなかの速さを発揮し始め、今年のチャンピオンはフェラーリとまで言えるマシンとなりました。後で考えると…これが問題の発端でした。それまでのフェラーリはたいした戦闘力もなく中段グループで走ることが多かったのですが、そのためチーム内のドライバー順列というのも気にする必要が無かったんです。
 しかし、勝てるマシン・勝てるドライバーが揃うと当然「どちらが勝つか」という問題が表面化します。これは、その前後のF1の歴史でもエマーソンVSロニー、ロイテマンVSジョーンズ、ピケVSマンセル、セナVSプロストと繰り返された問題です。ただ当時はチームもティフォシも、皆がジルがエースと思っていました…ただ一人を除いて…。

 そして因縁のサンマリノGPを迎えます。ここで問題が起きる事は後に誰もが知ることですが、その問題が発生する予兆にジルの妻は気付きます。その予兆とはピローニの結婚式にジルが招待されなかった事です。女性特有の感なのでしょうか…彼女は、ジルに「ピローニに気を許さないよう」にと忠告しても、気のいいジルは「かなり招待客が多かったから忘れただけだろう?」と気にも止めていませんでした。

 また、この頃FISA(世界自動車スポーツ連盟・当時はFISAはFIAの傘下での独立組織だったが現在はFIAと統合)とFOCA(F1コンストラクター協会)は仲が悪く、FISAにはワークス系のフェラーリルノー、FOCAには主にイギリス・プライベータ系のロータスタイレルなどが加盟していました。両組織は、運営方法やレギュレーション等でことごとく対立し、今回のサンマリノではタイレル(スポンサーにイタリア系企業がいたので)を除くFOCA系チームがボイコットしてしまい、通常の約半数の台数でレースが開催されレース前から不穏な空気がサーキットを支配していました。

 さて、決勝レースでは2台のフェラーリルノーのアルヌーがトップ争いを繰り広げていましたが、中盤でルノーがリタイアしフェラーリの1・2態勢となります。ここでジルもチームも「レースは終了、後はゴールするだけ」と思ったのですがピローニはジルをオーバーテイクしたりされたりとバトルを仕掛けます。チームはまだ若い二人がバトルし同士討ちとなる事を危惧します。ここはイモラ、フェラーリのお膝元、この状態でフェラーリが勝てないとなればティフォシの暴動すらおきかねません。
 そこでチームは残り約10周となった45周目ジル1位、ピローニ2位の状態を見て、サインボードで二人に指示を出します「STAY」と…、もちろんこの意味は「そのままの順位を維持」してゴールしろという意味です。ジルはそのサインを確認すると、3位以下とのタイム差もあったのでスピードを落としクルージングに入りました。
 サインの意味は単純に「そのままの順位を維持」です。しかし、ピローニにとってはこのサインは「ジルがエースでピローニはセカンド」という意味を示したものであり、「今年のチャンピオンはジル」という意味にもなった訳です…今までエリート街道を歩んできたピローニが自分がセカンド・ドライバーであるということは受け入れないものでした。

 そして、サインが出てもピローニは、ジルをオーバーテイクしてしまいます。しかし、ジルは最初、「ピローニは観客を喜ばすためにデットヒートを演じようとしているんだ」と思ったそうです。そして何度かの順位交代の後…レースも残り2周になった時に、ピローニがジルをオーバーテイクしてしまいます。当然、次は自分の番とピローニをオーバーテイクしようとするとピローニはラインを譲らず、アクセルを緩める気配もありません。ここでジルはやっと気が付きました「これは演出ではない」と…動揺しながらもジルはピローニを攻めますが残り1周では間に合いませんでした。結局2台は0.3秒という僅差でゴールをします。しかし、攻めていたジルにはあくまでもフェアなオーバーテイクを試みていたそうです。

 このゴールを境に二人の関係は「仲の良いチーム・メイト」から「許せないライバル」に変わってしまいました。ゴール後の表彰台からジルはピローニと決して目を合わせることもなくなってしまいました。ピローニには今までフェラーリで数勝しているジルに対して自分も1勝位と言う気持ちもあったのでしょう、しかし、純粋なジルはピローニを信じていただけに裏切りに対する怒りも大きく、インタビューに対しても「生涯を通して決して許せるものではない」とまで語ったほどでした。

 ジルに惚れ込んでいたエンツォは「ジルの心情が、失意と不安が私にはわかる」と言っていました。ここで契約問題もあるし、コンストラクター・チャンピオンもかかっていたのもわかるけど…。エンツォがなぜピローニをチームから追放しなかったかが疑問になりませんか?。
 それは、ジルはファンには人気が高いのですが、実は…。まずドライバー間での彼の評価は極端に別れていました「良い奴で凄いレーサー」と「ぽっと出の荒い走りしかしない」と言う人に。アラン・ジョーンズに至っては「あいつは頭を使って走ったことが無い」とまで言っていたそうです。また、ジルは現在のGPDAの元となる集まりなどでドライバーの安全性や立場を守るような動きがあるといつもその中心的存在となっていた為、FISA等の運営側から疎まれていました。フェラーリチーム内でもこれらと同様な事があり、実際にフェラーリチーム内でジルに好意をもつのはエンツォだけで、現場のメンバーはピローニ派だったという見方もあるようでした。その為、このレースの件も結局チーム内ではなあなあで終わらせる事になってしまい、それがジルの苛立ちを増大させる事になります。
 尚、GPDAの元となる活動ではジルと共にピローニも積極的に活動していたそうです。これも、それまではジルとピローニが仲良しと思われていた理由のひとつですね。

 しかし、ここでも疑問がでます。同じ中心的な活動をしたジルとピローニなのに、なぜジルはFISA等からに嫌われたんでしょう?。
 その頃のF1はヨーロッパ中心の社会でした(今でも多少は…)。しかも当時のFISA会長ジャン-マリー・バレストルはフランス人でヨーロッパ(特にフランス)への贔屓が露骨な人物でした。ピローニはフランス人、しかもフェラーリ在籍で一時的に関係が切れていてもピローニのバックにはフランスの大企業エルフやルノーが付いています。だからFISAはピローニの活動は見て見ぬ振りだったんです。(バレストル会長は後のセナ・プロ対決でも事あるごとにセナを悪者にしていましたね。プロストもフランス人でエルフ・ルノー系からF1に来たドライバーです。しかし、さすがに自分がモータスポーツ界から引退した後に「セナにはプロストを贔屓するために悪い事をしてしまった、申し訳なく感じている。」と戒述したらしいですが…。)

 そして2週間後、運命の82年5月8日に次のレースであるベルギーGPが始まります。予選終盤でピローニがトップに立ちます。ジルは、ピローニがトップにたったと知ると残り時間わずかにもかかわらずピローニのタイムを破るべくアタックを開始します。
 コース上ではほとんどの車がアタックを終えていました。ジルはピローニのタイムを破るために全力でタイムアタックをしていたのでしょう、心身ともに全てを掛けた走りといえばカッコいいですが、すでに余裕の無い状態でマシンを操っていたのでしょう。
 マーチのヨッヘン・マスもアタックを終えてスローダウンをしていました。そこにジルのマシンは追突してしまいます。マシンはパーツを四散しながら宙を舞いました、パーツと共にジルまでも…。マシンから投げ出されたジルはガードレールに叩き付けられ…首を骨折し即死だったらしいです。

 エンツォ・フェラーリは葬儀の会場で、ジルの棺に「私は、おまえを愛していた」と言ったといわれています。その思い入れはジルがフィオラノでテストを行う時に、コースサイドにジルの為の家を建てていた程でした。(ちなみに、その家は今でもあり、現在はシューマッハが使っています)

 ジルを失った後のピローニ何かにとりつかれたようにレースを戦いチャンピオン・シップで首位に立ちます。この年のチャンピオンは126C2の戦闘力でピローニに決まったようなものでした。が…
 ドイツGP予選二日目…その日は雨で、前日の予選でピローニはトップタイムをマークしていたためポールは実質的に決定していました。予選落ちぎりぎりのチーム以外は決勝も雨になった場合に備えてのテストセッションという様相でした。しかし、ここでもピローニは雨の中を全力でタイムアタックを開始します。大雨でタイムアップの望みなど無く、また必要も無いのに…
 この時コース上ではルノーアラン・プロストがスロー走行をしていた。ピローニは全力疾走のままプロストに追突してしまい…マシンの前部はグシャグシャにつぶれてしまいました。当時のマシンはフロントノーズを外すとドライバーの足が見えているような構造だったんです、当然ピローニの足もマシンの中で砕けていた…(一説にはプロストが雨では冴えない理由がこの件とも言われている)。

 決勝では、ジルの代役としてフェラーリに加入したパトリック・タンベイが優勝します。彼は「この勝利を偉大な二人のフェラーリドライバーのものだ」とコメントしたと言われています。

 このシーズン、この後もしばらくポイントではピローニのトップが続いていたのですが、ドライバーズ・タイトルは、ピローニをわずか5ポイント上回り、前年に1ポイントも獲得していなかった男…ケケ・ロズベルグの物となりました。ロズベルグは勝利数ではわずかに1回でしたが、混沌としたシーズン中にコンスタントにポイントをとりチャンピオンになりました、これが他のシーズンであれば「たった1回の優勝でチャンピオンなんて」と悪口も出るのでしょうか、誰もがこのシーズンの流れを知っていたせいか、そのような評価はあまり出ませんでした。なお、コンストラクター・タイトルはフェラーリが辛くも得る事となりました。

 大クラッシュのピローニですが、足を失ったといえ命に別状は無く、日常生活もなんとかおくれるほどの見込みがあった事でした。しかし、レーサー生命は絶望的です。それでもピローニはスピードの魔力から開放はされず。リハビリを終えた暫く後にF1が無理ならと水上のF1と言われるパワーボートに転向し数シーズンを戦います。

 そして数年後、新聞のスポーツ欄に小さな記事が載ります…「元F1レーサー、パワーボートで事故死」と…

後日談
 ピローニのF1時代からの恋人で妻のカトリーヌ、彼女とピローニ、ジルとジルの奥さんはサンマリノまでは仲が良かったのです。しかし、サンマリノからはジルは奥さんとカトリーヌの会話をも嫌がりるようになり奥さん同士も会話が出来ませんでした。カトリーヌはその頃からずっと心を痛めていたようです。そして、ピローニが亡くなる前に彼女はピローニの子を宿していました。
 当時、彼女はあるインタビューに「あの二人は、本当は兄弟か兄弟のように仲の良い親友になる運命のはずだったのよ。それが小さな間違いであのようになってしまったけど…」と答えたそうです。

 …そしてピローニの死後まもなく、双子の男の子がこの世に生を受けます…カトリーヌに"ジル"と"ディディエ"と名付けられた二人の男の子が…