シューティング・スター

古い時代の事を書いたり読んだり、また同日に知人が同時代の記事をするなんて事があって、ますます古い事を思い出す昨今。ふと、ある名前を思い出す。

…1983年…元々車好きでレース好きの私が、ちょうど国内ライセンスを取得した年です…その時に本当に流星のように現れ消えていった若者がいました…モータースポーツでは「たられば」の話は無意味と思っていても「彼がいれば日本のモータースポーツの歴史は変わっていた。」と思う人は多いと思います。

当時、日本国内の最高峰のレースであるF2やGCでは、常に星野・中嶋・松本・高橋(国光)・リース・エルグなどのそうそうたる顔ぶれが凌ぎを削り、ほとんどのレースの表彰台は彼らで占められていました。国内レースでは、新人はどんなに速くても、先ほどの顔触れを超えることは出来ないって状態が続いていました。

83年3月13日全日本F2開幕戦、前年のFJやF3で好成績を残した若干22歳の若者がF2にステップアップし初出場を果たします。そして、彼は前述の顔触れの中に割って入り全日本F2デビューレースで2位という快挙をはたします。

これは凄まじい衝撃でした…ファンやモータージャーナリストは歓喜をもってこの出来事をむかえます(ただ当時の日本ではモータスポーツの一般認知度はかなり低かったので、国を挙げてって感じはなくモータースポーツという狭い世界での出来事であったのは否定できませんが)。そして、気の早い人間の中では「日本人初のF1レギュラードライバー」の声も上がります。

しかも、次のビッグレース、3月27日のGCでも6位入賞。F2開幕戦が決してフロックでないことが証明され、周囲の期待はますますヒートアップしていきました。その後はちょっと落ち込み周囲を心配させましたが、秋にはまた上位入賞を重ね、話題は「いつ彼が勝つか?」になって行きます。

しかし彼は…その年の10月23日、富士のGCでの単独事故で帰らぬ人となってしまいます。

事故後のモータースポーツ雑誌や自動車雑誌では暫く彼の記事が誌面をにぎあわせます。「周囲のプレッシャーに負けた」「上位入賞はしても優勝できない事をスランプと捉え悩んでいた」等と言う彼の内面的な原因が事故を招いたのでは?という記事が多かったように記憶しています。私は、この辺はたまたま勝ちを逃した時やリタイヤした時の彼の感想を聞いた人の話をマスコミが都合よくまとめたという感じで受けましたが。たしかに、周囲の身勝手とも言える盛り上がりは凄かったし、彼の明るい表情の写真を見た記憶が私にはなく、内面的な物も原因だったのかもしれません。

誰に限らず、モータースポーツでの悲しい事故には心が痛むのですが、彼の事を聞いた時は悲しいと言うよりはショックと言う方が正しい感情だったと記憶しています。時代的に今よりも格段に安全性は未熟な時代。レースから死亡事故は切り離せなく、現場の人間とは違い、私たちファンではレーサーの死に慣れてしまった事もあったのですが、やはり彼の件は大きな衝撃でした。しかも、前年のジルの様な事もあり「やっぱり、速い奴は速く逝っちゃうんだな…」などと変な納得をしてしまった記憶があります。

たぶん、あれから20年。ジルの事件同様、私たちの世代では彼の事は年を経るに従い記憶に脚色がほどこされてしまっているのかもしれません。彼を失った後、正面から星野に挑み戦える日本人の新人の出現は、高木虎之介が登場するまでの10年以上も待たされる事がなおさら彼の印象を強めたとも思います。(アグリ・右京も日本チャンプになってF1に行ったけど…どうも「星野と戦って勝った」ってイメージが無いんですよ…)

あっ、肝心の名前をまだ書いていませんでしたね…高橋 徹という名を…